「桜井白パンダ多元的口述筆記」

31になりました。

いろいろな状況が目まぐるしく変わっていく中で、きちんと文章に残していくことにはやっぱり意味があるのだと思い、こうしてPCに向かって言葉を選び出して、でもドストエフスキーじゃないけれどこんな前置きなんかどうでもよくて早く本篇を始めるべきなんだ、本当は。本当は、という言葉がメールのやりとりとかでも頻繁に出てくるのは、そんなにいつもウソ偽り大袈裟紛らわしいを繰り返しているのか俺は?

4年付き合った彼女と別れたこともでかいし、新しく付き合い始めている彼女のこともでかい。

そのどちらも。

繰り返す問題はたぶん10年前と同じような問題で、それは成長していないともとれるけれど、人に向かってくる問題というのは本質的にはそんなに変わらないのだ。3つ子の悩み百まで。

キーボードに打つ文字が乱れるのは何の前兆だろう。ずっと打ち間違えを繰り返している。一番使っているキーがBACKSPACEだなんてのはおかしすぎる。ENTERキーよりも多い。

前提は以上だ。

本題に移ろう。

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桜井白パンダ

Author:桜井白パンダ

天保元年8月4日(1830年9月20日)〜安政6年10月27日(1859年11月21日))。長州藩士にして思想家、教育者、兵学者。明治維新の事実上の精神的理論者とされる。

幼時の名字は杉。幼名は杉虎之助または杉大次郎。養子後の名字は吉田、通称は吉田寅次郎。字は義卿、号は松蔭の他、二十一回猛士など。

文政13年(1830年)8月、長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれる。

嘉永7年(1854年)1月、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中・間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。

安政6年(1859年)、幕府の安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向けて[[留魂録」を書き残す。



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