「桜井白パンダ多元的口述筆記」

「オダギリジョーさん、麻生久美子さん、松たか子さん、ご結婚おめでとうございます!!!」

B00009CHC7アカルイミライ 通常版
黒沢清 オダギリジョー 浅野忠信
メディアファクトリー 2003-06-27

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 オダギリジョーさんを初めて見たのは映画『アカルイミライ』のなかだった。

 それ以前にもCMか何かで見かけたことはあったけど、固有名詞として意識したのはその時が初めてだった。そもそも『アカルイミライ』は、監督が黒沢清、主演が浅野忠信ということで見た映画。「オダギリジョーは浅野忠信の弟分」たしかそんな触れ込みがあった。

 まったくタイプの違う役者、というのが最初の印象。

(そういう設定だったから、というせいかもしれないが、そのあとの出演作を見てもそのときの印象はかわりません)

 勝手に例えれば、追い詰められたときに「キレる」のが浅野さんで、「泣く」のがオダジョ。人を殺すとき「笑う」のが浅野さんで、「悲しい顔をする」のがオダジョ。あ、たぶんオダジョは「泣き顔」が似合うんだ、泣き顔というか「情けない顔」が。

 その後、井筒監督の『パッチギ!』にも出てたらしいんだけど、覚えてないところをみると、『あのCM』まではほとんど興味がなかったらしい。


「どーすんの、ねぇ、どーすんのよぉ!?」


 で、僕は、惚れた。一目惚れ。というかあんな男性になれるもんならなってみたい!(手前は下品すぎるから、いけても竹中直人)

「あの役者が出てるんなら1800円払って見よっか?」と思える役者さんなんてほとんどいないけど、オダジョーさんなら払う。最近の主演作『転々』も渋谷のCQNで見て、自分も東京を転々としてみたくなった、というか転々としてきた感もなきにしもあらず、というか2か所ぐらい自分の住んでた街が映ってて、ほほえましかった。

(ちなみにCQNがなんの略かわからず、ぴあのチケット売り場で「あの、ほら、渋谷にある、シーキューエヌ!」って言ったら抑揚のない業務的返答で「シネカノン、ですね」ってさらっと流されるっていう、あの恥ずかしさ。。『300』見に行った時も「さんびゃく、大人1枚!」って喜び勇んで言ったら目も合わさずに「スリー・ハンドレッド、ですね?」ってさらっと言わんでも。。。。恥ずかしいよ?(というか『300』を「題名長ったらしいから『さんびゃく』でいいや覚えやすいし♪」とかいって本当にそう覚えてる自分もそろそろ反省すべき歳か!?))


『アカルイミラ』と『ゆれる』と『転々』について語りたいがまた今度、という今度はけっこうやってこないという最近の自分の法則はけっこうあてはまる。そういえば岩井俊二監督の映画について〜なんて、あれ、ずっとストップしたままで、おいおいもうすぐ2008年だぞ桜井幸夫。←いつのまに幸夫? ちなみに『ゆれる』のオダジョーさんはカッコよすぎるので、セックスシーンとかまじやばいので(おいおいおれの性別はどっちだよカムアウト)、年末年始にTSUTAYAかどっかで借りて見てみてね☆

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桜井白パンダ

Author:桜井白パンダ

天保元年8月4日(1830年9月20日)〜安政6年10月27日(1859年11月21日))。長州藩士にして思想家、教育者、兵学者。明治維新の事実上の精神的理論者とされる。

幼時の名字は杉。幼名は杉虎之助または杉大次郎。養子後の名字は吉田、通称は吉田寅次郎。字は義卿、号は松蔭の他、二十一回猛士など。

文政13年(1830年)8月、長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれる。

嘉永7年(1854年)1月、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中・間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。

安政6年(1859年)、幕府の安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向けて[[留魂録」を書き残す。



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