「桜井白パンダ多元的口述筆記」

ウサギはさみしいと死ぬの?

 

 「井上さん2歳おめでとうございます!」記念♪


 彼、彼女らは、夏休みに家でだらだらと寝そべりながらアイスを食べている小学生に驚くほど似ている。飼い主がいようといまいとおかまいなしで、ひたすら勝手気ままに寝たりうずくまったりトイレに駆け込んだり、でもひとたび餌の時間になると「ぶぅぶぅ♪」と鳴いて気でも違ったように走りまわる。(そう、ウサギの鳴き声はあの「ふてぶてしいデブ」の隠語である「豚」にそっくりなのだ!)

 早朝、餌がつきた時間になると、ウサギはサークルやケージの金網を猛烈な勢いで「ガジガジ♪」と噛む。「餌くれよ」と。歯がちぎれるんじゃないかとこっちが心配になるくらいの激しさだ。

 ウサギはちっちゃくてかわいくてさみしがりだから、きっと「抱っこ♪」が大好きにちがいない、と思われたならば、ためしにひょいっと「抱っこ♪」してみるといい。ウサギは即座に、あの大ジャンプをお得意とする強靭な後ろ足で、あらん限りの力でわたしたちの腕を蹴りまくるだろう。阿鼻叫喚、とはまさにこのこと。あとに残るは、リストカット後のような無残な血だらけの腕だ。

 さみしくて死なれたらいやだ! ということでウサギに近寄ってデヘヘと頭を撫でたり、体をさすったり、そういうことをしても彼、彼女らは猫みたいに鳴かないし、すり寄ってもこないし、むしろ「嫌がってる」みたいな面もなきにしもあらずだし、ましてや「ありがとう」なんて微塵も表現してくれない。歯をすり合わせて喜んでいる? あれは口腔骨格上の特性なのだ。

 ウサギは神経質っぽい? この世であおむけになりお腹をだして口を半開きにして寝る草食動物が、いったい他にだれがいる? わたしには想像もつかない。


 以上、わたしたちは血みどろの闘いの末、ある一つの結論に達するのだ。



 「ウサギはさみしくても、決して、死なない」



***

 ちなみにわたしは女の子のホーランドロップ「いのうえさん」を我が家に迎えて8月でちょうど丸2年になる。彼女の●を掃除するのはパパであるわたしの役目で、ベテランパパのわたしは●を素手でつかんでもへいっちゃらなのだ。

 ウサギはさみしいと死ぬ、と始めに言いだしたのは誰なんだろう? 
 たぶん、ウサギを何日か放置したら死んでいたので、動転した飼い主が「さみしかったから死んだんだ・・・」と思ってしまった『大きな責任転嫁』から生じた言葉なんだろうなぁと思う。

 小動物であるウサギの時間は、当然のように人間よりも早く進む。1日の放置は、ウサギにとっては10日にも匹敵する。10日もあれば人間だって病気になる。治療が遅れれば死ぬ。ウサギの容態が急変するのは当然で、だからこそわたしたちは1日に何度か彼、彼女らの様子をみてあげる必要があるんだ。そっとでいい。



***

 ちなみに、こんなにお茶目でかわいいウサギ、何かに似ているなぁと思ったら、

「付き合っているとき、かわいらしいお人形さんみたいで『おなら』とか出ないんじゃないの?みたいな子が、いざ、結婚すると・・・!」

 古今東西、かわいいものには気をつけましょう♪

 そしてめげずにかわいいかわいいと伝えてあげましょう♪

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桜井白パンダ

Author:桜井白パンダ

天保元年8月4日(1830年9月20日)〜安政6年10月27日(1859年11月21日))。長州藩士にして思想家、教育者、兵学者。明治維新の事実上の精神的理論者とされる。

幼時の名字は杉。幼名は杉虎之助または杉大次郎。養子後の名字は吉田、通称は吉田寅次郎。字は義卿、号は松蔭の他、二十一回猛士など。

文政13年(1830年)8月、長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれる。

嘉永7年(1854年)1月、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中・間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。

安政6年(1859年)、幕府の安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向けて[[留魂録」を書き残す。



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