花粉症と風邪と肺機能の低下による呼吸困難に襲われていた「じいさん」は、けれど、最期の力をふりしぼって、酸素マスクを取り外した。そして、語りはじめた。
「ひゅー、ひゅー、むかし、そのむかし、テキストサイト、というブームが、ひゅー、あった」
窓の外には桜の花の蕾が緑色の外皮を押し破って今にも咲き乱れようとしていた。
「あのブームは、ひゅー、いったいなんだったんだ?」
新品の透明な尿瓶は一度も使用されずにベッドの脇でうっすらと埃をかぶって置いてあった。
「いつからネットは、慣れ合いの、当たり障りのない、過激な意見はすぐに炎上される、うっすいカルピスのような空間になったんだ? それか、俺が知らないだけか? 俺の知らないどこかにはまだまだ当時のテキストサイトのような文章がごっろごろ眠っているのか? それはどこだ? どこにそんな文章がある!?」
医者も看護師も付き添いの牧師もキャバクラ時代の黒服仲間の嵐山もみんな黙っていた。
「mixiのせいか? ブログのせいか? いや、だれのせいかだなんて犯人捜しがしたいんじゃない、そんなことよりも俺は血の通った生身の人間の心からの叫びが、見たい。クリックした瞬間に全身に鳥肌立って息せき切ってスクロールしてるサイトが、見たい。テキストサイトブームよりもはるか昔、まだまだ日本にネットが上陸したばかりで孤島のようなHP群がぽつぽつ生まれていたあの頃、リンクをクリックするたびにドキドキしていた、どんなにくだらない文章でも、どんなに稚拙なサイト構成であっても、俺は感極まった」「人間の深淵を覗き見ているような見ちゃいけないもん見てしまったような、それらはみんな誰かの何かを表現しなくちゃ生きてられない真皮を剥いだ魂の無垢な露呈だったんだ、あいつらみんな健気に一人で、たった一人で、立ってた」
『血圧上昇』と看護師が静かに言った。窓ガラスが春一番を受けてカタカタと鳴った。
(でもおじいちゃん)と孫のナカムラ君はおじいちゃんを見つめた(当時のサイトも玉石混淆で、でも比較的『玉』が多く見受けられたのは総母体数が少なかったからで、『玉』は『玉』同士すぐに繋がることができたから、だから素敵なサイトが多いように見えたんです、錯乱しはじめたおじいちゃんの脳内はもう『過去=良かった』という論理式しか成り立っておらず、冷静に解析する思考をもう持ち合わせていません)的なことを0コンマ02秒で思ったが、でもうつむいたまま、足先の尿瓶に太陽の光が反射して描き出すスペクトルを眺めていた。
医師が看護師にそっと何かを耳打ちした。看護師が部屋の外へ出た。ドアが開いて一呼吸置いたあと、冷たい廊下の空気がわずかに部屋中に侵入して、しばらく漂ったあと、消えた。
「孤独な、血だらけの魂が、深夜に震えながら泣きながら誰かに向かって『ここにいるよ』と声を上げていた」
じいさんは目を閉じた。目じりのしわの間が濡れていた。嵐山がたまらなくなって諭すようにささやいた。「mixiに日記かけば、すぐにマイミクがコメントつけてくれるよ。もう昔みたいに、寂しくなんかないんだよ」
「そのコメントに意味はあんのか!?」
じいさんは眼球が飛び出さんばかりに目を見開いた。
「そのコメントは、本当の本当に、おまえが本当に伝えたい言葉なのか!?」
『血圧上昇、このままでは脳内静脈瘤および動脈瘤が持ちません、脳梗塞、再発します』『大至急***注入、***の数値をあと3上げて、***を限界値まで』『大至急***注入』
「お、おしえてくれ、さ、最期に、おしえてくれ、ネットは、この先、どうなる? 当たり障りのない村社会がどんどん世界を覆っていくのか? これじゃ結局おれが逃げ出した田舎と、なーんにも言いたいことが言えない田舎と、ほれ、同じじゃーーーないか!? 働き盛りの大人は無言で街に出、残された思春期の子供たちがわーわー愚痴を吐きたてる、そんな、そんな田舎に、おれは、ひゅー、おれは、ひゅー、ひゅー。おれは、ひゅー」