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ゼリービーンズが口の中でとろける。マティーニの大人の味を中和する。氷の奏でる密やかなメロディーに酔いしれて、僕らは淡い照明につつまれエレヴェーターに乗り込んだ。
「酔っちゃった」
里奈さんの胸が、僕の二の腕にふれる。やわらかく、沈む。「さくらいくん、もう、帰っちゃうの?」帰りません。神かけて帰りません。ふふふ、と里奈さんは笑う。腕にからまる。里奈さんの熱い体温。やばい。僕の必死の抵抗も虚しく、下半身が準備体操を始めてしまっている。やばい、やばいって、このままだと里奈さんにバレるって。。。
***
里奈さんは仙台の裕福な家の子だった。持ち物はすべてブランド品で、今夜泊まるホテルも超高級らしかった。「なんていうホテル?」僕が聞くと、里奈さんは、恥ずかしそうにうつむいて答えた。
「ちんぽ、荘」
「へ!?チンポ荘!!??」(卑猥イメージ2G分)「やだーさくらいくん、もう、へんたいでしょー」ごめんごめん、僕の大きすぎる聞き間違いで、ホテル名は「ちんざん荘」だった。そのホテル、僕がそれまで聞いたことのない、でも上流の方々には非常に有名なホテルらしかった。
外で食事を済ませ、タクシーで里奈さんを送った。東京の中心、高台にある日本庭園に囲まれたホテル。1階で軽くお茶をする。機嫌がいいのか、里奈さんはフロアのあちこちを指で差して、はしゃいでいる。
あの人、野球選手よ。あの人、指揮者よ。あの人、建築家よ。あの人、歌舞伎の人よ。
生ピアノ。バロック調だかロココ調だかゴシックだがよく分からないけれど、そのような中世ヨーロッパ風のお酒をたしなむ場所。隣に座る里奈さん。ドライマティーニ、と誰かにお願いしている。蝋燭のような照明の下、里奈さんが(かんぱい)と小声でいう。一度も飲んだことのないカクテル。苦味で嗚咽が出そうになる。でも必死になって、場慣れしているふうを装う。里奈さんが微笑む。僕も、せいいっぱいの笑顔を返す。彼女の大きく開いた胸元から、黒っぽい下着が見えた。僕は急にそわそわしだす。里奈さんの細い腕が伸びてくる。(耳、きれい……)冷たい指先が耳に触れた。心臓が激しく鳴る。里奈さんが微笑む。僕も返す。香水なのか、とても甘い香りが僕の思考を溶かしていく。今度は指に触れる。彼女の華奢な指先が、僕の指を優しく撫でる。(きれいね……)彼女の体が僕に寄り添ってくる。里奈さんの胸元が、僕の視界を奪った。
***
あたしの、赤ちゃんなの。
里奈さんは確かにそう言った。
だから、さわらないでね。
ホテルの部屋。彼女は既に眠っている。壁際のテーブルの上、手帳といっしょに写真が一枚、裏返してある。「あたしの、赤ちゃん」見たい。彼女の寝息が聞こえてくる。それを確認して、僕は写真を手にとる。でも、見ない方がいいのかもしれない。「かれの、子よ」見たい。でも、見たい。僕は酔ったせいにして、勢いでさらっと表に返した。
僕は、ぱっと里奈さんを見る。彼女は全裸で熟睡している。僕はもう一度、写真を確認する。真っ赤な何かが写っている。それは、両手両足を切り落とされたパンダの死体だった。
第09話「庭に降る雨」
2007.05.29
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「あのテロリストは、やっぱり極東亜細亜連合軍だったよ」
***
第09話「庭に降る雨」No6
***
「殺すとき、腕に『七星の刺青』がみえた」と、パープルさんは話しはじめた。
「彼らの理屈だと、星は眼の暗喩らしい。そして眼は、前方、後方、上下、左右、心眼、の合計7つある、と勝手に決めつけている。見すぎだよな。どんだけスケベエだって話だ。まあいい。それで、あのテロリストは『七星の刺青』をもつ暗殺集団で、正式名称は『七眼』。国連は彼らを裏で『セブン・アイズ』と呼んでる。まあ、ひねりもシャレもない安直な翻訳だ。過去に見た映画のタイトルに似てるから私的には気に入らない。ちなみに、『七眼』の連中は、その強さによって細かく階級が別れている。私が、というか国連が把握しているだけでも、一級、三級、五級、七級、九級、の全部で五階級がある。昼間、私が戦ったのは、せいぜい三級レベルだ。これが、もし、五級レベルの5人組だったら……、さすがの私でも、かなり苦戦していたはずだ。もしかしたら、今ごろ天国にのぼって遍歴を重ねているのは彼らではなくて、私のほうだったのかもしれない」
パープルさんは雨の向こうを遠い目で見た。僕はただだまっていた。
パープルさんの話に出てくる単語は、どれもこれも、どこか遠くにある異国の言葉みたいだった。僕らは、公園みたいな場所の中心部にある、屋根のついたベンチに座っていた。チェ・ミンソンさんは用をたしたあと、もう一眠りしますいやぁ飲みすぎちゃいました、といってタクシーに戻り、ここには僕とパープルさんしかいなかった。しばらくペ・ヨンジュンの物まね(きみを守りたい)をしていたパープルさんは、ちょっと大事な話をしようか、とあらたまっていった。僕は長い話になりそうだと直感で思った。
「世界の人が知らない場所で、知らないうちに、悪はどんどん育っている。悪とは、そういうものだ。ある日、突然、戦争がはじまったように感じられるかもしれないが、それは大きな誤解だ。あるいは、無知だ。戦争の兆候なんて、いたるところにあったはずだ。ハイジャックがあって、犯人は罪の無い人を殺す。そして、本人も射殺される。しばらくはトップニュース扱いだ。でも、やがて人は、忘れる。そんな事実なんて無かったみたいに。思い出すのは年末の、今年あった10大ニュースのときぐらいだろうな」
雨はさっきよりも激しく降っている。僕は、遠くにある街灯の光を、その光の中の雨を、ぼんやりと見つめながら話を聞いていた。そういえば、以前、どこかで、誰かと、こんなふうに大雨のなかで話をした記憶があったけれど、誰と話したのだろうか? と思ってみたら、それはアウフ〜だった。なつうかしい、というかすでにアウフ〜が思い出の領域に入っているということに、驚く。なぜ忘れていたのだろう。アウフ〜と別れてまだ1週間も経っていないはずだ。それなのに、とても遠くの出来事のように思ってしまう。(アウフ〜は、いまごろ、どうしてるのかな。やっぱり、もう、この世には、いないのかな?)
「たしかに粉々にする必要は無かった、のかもしれない。でも、彼らのせいで、人が既に4人も死んだ。もっと早くにやってしまえば、よかったのかもしれない。でも、私だって、すぐにパンダになれるわけじゃないんだ」
「パープルさん」
「うん?」
「パンダ、って何なんですか」
パープルさんはちょっと動揺したように、顔を小刻みに揺らした。そして僕に向き直って、微笑んでみせたが、それは明らかに苦笑いだった。顔面にはなぜか汗をしたたらせていた。「今は、まだ、細かいことは、知らなくていいと思うんですよ。いろんなことを知りすぎると、余計なことを考えてしまって、行動に隙が生じてしまう……、即座の判断がにぶってしまう、でしょ? わたしの言いたいこと、わかりますよね?」
「思春期に、本読みすぎると、家出する」
「うーん、そうとも言えるのか? まあ、言いたいことがわかってくれれば、それでいい」
パープルさんは大きな咳ばらいをひとつした。パープルさんの紺色のタキシードが、雨で半分濡れている。そういえば、なぜタキシードなのか、聞くのを忘れていた。焼肉のにおいがこびりついているけれど、いいのかな。
「え、ふんっ。サクライくんは、人間に、戻りたいのだろう? そして、壊れゆくこの世界を救ってみようかなぁとも、思っているのだろう? そのためには、他の5人のパンダを見つける必要が、ある。そういうことだ。今は、それだけを考えていればいい。あまり余計なことは考えるな。極東亜細亜連合軍は、そういう心の隙間につけこむのが得意だからね。彼らは、あらゆる洗脳術を心得ている。騙されるんじゃないぞ。人民扇動なんて、お手のものだからね。サクライくんの母国にだって、彼らの支部はいたるところにある。そういうことだ。だから帰国しても気をつけてネ☆」
第09話「庭に降る雨」
2007.05.15
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市外に出てから降りはじめた雨は、ますます激しさをましていた。深夜、38度線へ向かうタクシーの車内で、パープルさんが運転手に話しかけている。酔っているのにはっきりとした口調だった。
「いつから降ってるの、この雨?」
「もう、今夜で、1週間になりますね」
「そんなに? おかしな雨だね」
ワイパーがきしみながらいそがしく左右に動き、雨のかたまりがふるえるようにして流れていく。外は、街灯のオレンジ色の光と、ときおりくる対向車のヘッドライトのにじんだ明かりしか見えなかった。外がどんな景色なのか、見当もつかなかった。僕の隣ではチェ・ミンソンさんが寝息もたてずに、窓におでこをくっつけて眠っている。たまに車が揺れて、そういうときチェ・ミンソンさんのおでこもバウンドしてガラス窓にゴチッとぶつかるのだけれど、彼の眠りは深いらしく、目を覚ます気配はなかった。
学生のとき一度だけ38度線へ行ったことがある。そのときは真夏の暑い昼間で、北の山々が河のむこうにくっきりと綺麗に見えた。北と南の境界線を流れている河は、多摩川や利根川よりもずっと大きくて、手入れのされていない岸辺はジャングルみたいな森でおおわれていた。向こう岸がどうなっているのか、肉眼では見えなかった。50年前に、たしかにここでは戦争があって、たくさんの兵士や戦車がこの大河を渡ったのだろうけれど、もうそれをリアルに想像することはできなかった。唯一、両岸をむすんでいる鉄橋に橋桁がなくて、支柱だけが残っている姿をみて、いまでも両国が戦争中なんだと思うことができた。北の兵士の姿は、こちらからは見えなかった。青空には日本の夏とかわらない入道雲のような真っ白い雲が浮かんでいた。
でも今は、外は真っ暗闇で激しい雨が降っていて、ここが韓国なのか日本なのかさえもよくわからなかった。
チェ・ミンソンさんと運転手を残して、僕とパープルさんはタクシーをおりた。傘は、運転手さん愛用の折り畳み傘一本しかなかったので、激太りのパープルさんと痩せたとはいえ小太りの僕とでは、お互いの肩がどうしてもはみ出してしまう。(春雨だ、濡れていこう……)とパープルさんは渋く言い放つも、かたくなに傘にしがみついている。(ちょっと放尿)とパープルさんは公園のような場所にある公衆トイレに入っていった。僕はトイレの入り口で雨を避けて待った。街灯の真下だけ、雨の筋が光って白く浮かびあがっている。その無数の白い筋が、一瞬で消え、そしてまた新しくあらわれて、左右にはらはらと動きつづけている。
その光のなかに、ぬうっと人影が見えた。その人影は「もぉれぇるぅぅー!」と叫びながらこっちに向かって走ってきて、それがびしょ濡れになった前髪をおでこにはりつけて海に漂うワカメみたいになったキム・ジョンイル、似のチェ・ミンソンさんで、僕は笑ってしまった。
第09話「庭に降る雨」
2007.05.10
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「22歳のヘタレ文系が、30歳の独身医師だなんて、そんな嘘すぐバレるわ!アホちゃうか!」とおっしゃるのは、おそらく、見知らぬ他人とメール交換をしたことのない御仁のご意見ではないだろうか? といいたいのはやまやまなのですが、ええ、すぐにバレます、というか、大体実年齢が違うのでバレます、というか、どうせバレるんだったらバラしてしまえカブトガニ、というわけで僕はしょっぱなから里奈さんに謝罪メールを送った「騙してごめんなさい」。でも、里奈さんの返事は、意外だった。
「わたしは別に、30歳とか、独身とか、医師とか、そういう言葉にひかれて、メールしたんじゃないよ。むしろ、22歳で、独身(これは本当でしたね)で、まだ学生の桜井くんに、ちょっぴり、興味があります」
3回目のメール交換で里奈さんは写真を添付してきた。「2年前の、モデル時代の写真だから、今とはちょっと違うので、あんまり信用しないでね」
写真の里奈さんはレースクイーンみたいな格好で車の前に立ってパラソルを両手で持ってニコッと微笑んでいた。激、麗人。でもちょっと、おかしくない? こんな綺麗な、道を歩けば5m毎に告白されちゃうような麗人が、僕のような市井の大学生とメール交換しちゃってしまう世の中なのか? ビバ・ゲイツ? しかも、徐々に長くなる僕らのメール本文は今では画面5スクロールぶんぐらいの超長文になっていて、これだと会って話したほうが早くない? ということで。
今週末、僕は里奈さんに会う。
急展開。
金曜日。待ち合わせの四谷駅前。待ち合わせの午後七時になって、横断歩道の向こうに「何か」が見えた。そう「何か」という表現のぴったりな「巨大な物体」が出現した。(な、なんだ、あれは!?)それは、丸々と肥えた牛、だった、ええ、激太りのホルスタインが、白いポーチを肩から下げて、頭髪は真っ黒三つ編みで、黒ぶち眼鏡は「それベンゾウさんコス?」みたいな「どこで売ってんの夢幻堂?」みたいな年のころ40近くのおばんさん、だった。
信号が青になる。どっすんどっすんと、巨大な乳牛が僕めがけて突進してくる。満面の笑み、で。り、な、、、さん? 僕は、泣いた。そして、笑った。(しょうがない、元はといえば、最初に「嘘」ついたのは僕の方なのだから、これは罪深き僕に対する、神様からの罰なのだ……)
僕は、必死に反逆しようとする筋肉を恫喝し、右手を高らかと挙げて「ハァ〜ィ☆」的な微笑み(顔面麻痺?)を向けた。『さくらい、くんっ!』と僕は叩かれる。バシッと。後ろから。え、後ろから? 僕は振りかえる。そこにはキャバ嬢みたいに胸の開いた首の後ろで結ぶような露出しまくりの衣装を着て茶髪をアップにしたスレンダー美女が、『はじめまして、里奈で〜す』と顔を少し斜めにしてニッコリと微笑んで、いた。可憐なバンビ。魅惑の瞳。僕は、また、泣いた。
ホルスタインは農場に帰っていった。
第09話「庭に降る雨」
2007.04.05
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というのはもちろんウソで、とパープルさんは笑いながらいった、キム・ジョンイルのそっくりさんとして韓国のTVでひっぱりだこの、有名人チェ・ミンソンさんです。「チェ・ミンソンです。初めまして。びっくりさせてごめんなさい」とチェ・ミンソンさんはサングラスを外しながら美しい日本語で答えた。目は確かにかわいらしい小動物のようだった。「なんでそんなに日本語が上手いんですか?」と僕が尋ねると「悲しい過去のおかげです」とチェ・ミンソンさんはいいながら、ハラミをつつきはじめた。
「生、追加で三杯!」とパープルさんが大声を出す。「いやぁ、僕はもうウーロン茶で」と僕が遠慮すると、パープルさんは片目を閉じ(分かった)というサインで微笑んだあと、「大至急、生、三杯っ!」と全くの無視。「せっかくだから飲みましょうよ」とチェ・ミンソンさん。そうだ、今日は僕とチェ・ミンソンさんが出会った記念すべき日なのだ!というのは建前で、本音は、全部チェ・ミンソンさんのおごりなのだ!ということで、僕らは夜通し飲みまくることになった。
***
見知らぬ女性と知り合う場所は二つある。
一つは路上。もう一つはインターネット。でも僕がHPをつくっていた20世紀の終りというのは、援助交際もまだまだテレクラが主流で、そもそもネットに接続している男女比が8:1とか9:1とかいわれていた時代。つまり、出会い系サイトで知り合った女性に睡眠薬を飲ませて凍死させたり、サイトで知り合った主婦に激しい恋心を抱き刃物でめった刺しにしたり、というような過激な事件もほとんどなくて、純粋な「メル友募集」という掲示板がまだまだ存在していた時代だ。
僕と、りなさんは、そんな古風な掲示板の一つ「あなたのお悩み解決します」系の、不倫コーナーで知り合った。
りなさんは元モデルの26歳で、最近HTMLを勉強し始めて知り合いのHP作成会社に就職しようと思っていて、でもその会社の社長と不倫関係に陥ってしまっていて、どうしたらいいのでしょうか? と悩んでいた。
「奥さんもいて、しかもしょっちゅう女を買っているのに(汚らわしい!)、さらに私も求めてくるなんて、男という生物は、どうかしています!」
それに対して30歳の独身医師が「その『奥さん』はただの玩具or漬物石で『買った女』はオナホールorダッチワイフで、りなさん、そう、あなたこそが、彼の恋人or愛する人、なのです」と答えた、その答えをなぜかりなさんはいたく気に入ったらしく、すぐに彼のHNの隣にあったメールアドレス欄をクリックした。そして、「ありがとうございます本当に嬉しいです」メールを送信した。
そうして、30歳の独身医師と、元モデルのりなさんの、メール交換が始まったのだ。
そう、その30歳の独身医師こそ、当時まだ22歳大学4年生の僕だった。文系で、ドレッドに近い金寄りの茶髪で卒業後の進路も決まっていない就職難民の、僕。
第09話「庭に降る雨」
2007.04.02
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それからパープルパンダは気絶しているらしい機長を叩き起こして「北の国境だぁぁっ!左に曲がれぇぇぇっ!」と大声で叫び、何が何だかよく分からない寝起きの機長はとりあえず操縦桿を左にきって、しばらくして事態に気がついたらしく、パパパッと計器類を素早く操作しながら英語でどこかの人間と会話をつづけていた。
僕はぼんやりと座席に座り込んでいた。隣に誰かが座っているのが見える。顔を横に向けてみた。ANAの制服を着た人間。彼の眉間には「うめぼし」のような赤い塊が付着していた。それはどうやら「かさぶた」みたいで、彼はつまり、誰か(この場合はテロリストしかいない)に撃たれていたようだった。「うめぼし」の両隣の目はきつく閉じられたまま、動く気配はなかった。
しばらく機長の隣で前方を凝視していたパープルパンダは、重そうな体をゆっくりと揺すりながら歩いてきて、僕の隣に座った。彼自身が椅子になってしまったみたいに、全身の力が抜けきった座り方だった。そして僕の顔も見ず、前を向いたまま話しはじめた。
「詳しいことは、またあとで説明しよう。しかし、ちょっと危なかった。あと10000フィートで北との境界線だった。機長が青ざめていたよ。そういえば、向こうのスクランブル発進が見えていたな。ミグ戦闘機が肉眼で確認できた」
機体が徐々に高度を落としていく。機長が「みなさまこれより着陸態勢に入ります。シートベルトを確認ください」と明瞭な声でアナウンスを入れていた。
耳の奥がひっぱられる感触。巨大なプールの底に沈んだみたいに、景色の音が遠くなる。地上が目の前に確かなものとして広がっている。着陸か……、自分の席に戻らなくてもいいのかな? と思ったとき、(そうそう)とパープルパンダの声が不明瞭に響いてきた。(テロリストは、全員、《変な爆発で死んだんだ》よ、サクライくん。《変な爆発で死んだんだ》、誰かに何かを聞かれたら、そう答えてね)
***
「変な、爆発がおこったんですよ」とパープルパンダは取調べに対して答えていた。「ええ、確かに、わたくしどもがコックピットに入ったときには、もう、みなさん、既にお亡くなりになっていました」
***
ソウルで一泊した晩、ドアを誰かにノックされた。
眠る準備をしていた僕は、一瞬、応答しようかどうしようか迷ったけれど、ノックはしつこく繰り返されるので、僕は仕方なく覗き穴から外を見てみた。パープルパンダがタキシードを着て立っていた。
「せっかくソウルに来たんだから、焼肉を食べにいきましょう」
焼肉を食べるのにタキシードはないんじゃないかな、と思いつつ、僕らはエレベーターでロビーに下り、タクシーでパープルパンダお薦めの焼肉店に向かった。そこは一見、古民家のようで、看板らしきものは表に出ていなかったが、中は人で賑わっていた。昔ながらの炭火焼の店らしく、肉の香りを充満した煙が、濃い霧のように店内を厚く覆っていた。「カルビとカルビとユッケとキムチとカクテキとサンチュと石焼ビビンパ」と僕らは隅っこの席に座るなり、注文を繰りだした。「あと、生中二杯!」
「えーっと、パープルパンダさん」「パープルさんでいい」「はい、パープルさん」「なんだ、白くん」「たぶん僕は『白』よりも『サクライ』のがいいと思います」「んじゃ今までどおり、サクライくん、なんだ?」「これって、全部、パープルさんのおごりですよね?」「と、思うだろ」「え、違うの?」「サクライくん、超・極上カルビ、何人前頼んだ?」「え、っと、僕が3人前で、パープルさんが5人前だから、計8人」「ぶっはぁ、うんなもん払えるかぁ!」「僕も無理です」「じゃあ、財布、呼ぶよ、財布」といいながら、パープルさんは誰かを携帯で呼んだ。
誰かは15分後に到着した。誰かは小太りでサングラスをかけていて、パープルさんによく似た外見だった。でも誰かは、もっと誰かにそっくりだった。「アニョハセヨ」と誰かがいった。僕も「アニョハセヨ」と答えた。誰かが僕の隣に座った。(このひと、TVで見たことある気がする)と思っていると、パープルさんがいった「サクライくんも、実物見るの、初めてなんじゃないかな? この人、実は」「キム・ジョンイルです」と『キム・ジョンイル』は流暢な日本語で答えた。そして、二段腹を揺らしながら笑った。
第09話「庭に降る雨」
2007.03.17
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上海発成田行のNH922便は、日本時間の午後4時17分、韓国の金浦国際空港に緊急着陸し、待ち構えていた韓国特殊警備隊の突入により5名のテロリスト全員がその場で射殺された。そして、乗員乗客330名の身柄が、無事に保護された。
しかし、突入前、テロリストの凶行により、副操縦士及び機関士の両名、客室乗務員1名、民間人1名の計4名が犠牲となり帰らぬ人となった。負傷者は全部で29名だった。
当局の発表によると、テロリストの所属団体及び動機は依然として不明であり、現在も調査中であるが、極東亜細亜連合軍の外部組織である可能性が高いという。
僕は金浦国際空港内の特別室で、当局の質問を1時間ほど受け調書のようなものを取られたあと、同日夜、航空会社が用意してくれたソウル市内のホテルに入った。
***
そして翌朝の第一便により、無事、日本に帰ることができた。
***
気がつくと、僕はコックピットの後部座席に座っていた。
飛行機の通路を前方に向かっておそるおそる歩いていた僕は、テロリストらしき人物を通路上で発見することができず、フランス人の姿もどこにも見当たらないので、仕方なくコックピットへの扉をゆっくりと開けた、瞬間、何か強烈な光が僕の全身を包み、意識が飛んでしまう直前までは、確かにはっきりと記憶がある。
でも、そのあとは、途切れ途切れの写真のような情景しか、覚えていない。
紫色の……それはたしかに紫色だった、紫色の毛むくじゃらの獣が、いた。
その獣が、テロリストたちの体を順番に「粉々」にしていた。
テロリストたちは、まるで砂の粒で作られていた人形みたいに、すすーっと音もなく崩れ落ちていく。液体窒素の中に突っ込んで、瞬時に凍らせたあと、巨大な万力でズズズズズッとすり潰したみたいに「粉々」になっていった。
その光景が、断片的に、残っている。
気がつくと僕はコックピットの後ろにある座席に座っていた。目の前に、あのおしゃべりなフランス人がにっこり微笑みながら立っていた。涼しげな表情で、顔には汗一つなかった。
「白パンダくん、はじめまして」とフランス人が言った。「わたしが、パープル・パンダだ」
第09話「庭に降る雨」
2007.03.15