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光。そして、光。
横浜の街の一つ一つからあふれ出し街を埋めつくす光。星が海の向こうまで届く。赤い光、あれは高層ビルの航空障害灯。まるで生き物みたいにゆっくりと点滅している。一つだけ高く突き出している光、あれはランドマークタワーだ。海の向こう、カメラのフラッシュみたいな強い光。あれは、ベイブリッジ。
遮るものは何もなかった。ただ光だけが、両手いっぱいに広がっていた。
僕は何かを言いかけてやめた。カオリはただ真剣に前を見つめている。僕は(うん)とうなずいて、カオリのそばで、朝が明けるのを待った。
空が白くなるまでに時間はかからなかった。太陽はまだ見えなかったけれど、星はその数を減らし、海には青い色が戻り、街は靄につつまれはじめていた。
(ここが、横浜で、一番高いところ)と僕は言った。(ランドマークタワーよりも?)とカオリが聞いた。僕はうなずいた。「よくね、トモミとここに登ったんだ。飲んで、朝帰りのときとか。その頃は、トモミは大学の寮に住んでて、ここまですぐに来れたから。でね、歌とか歌ったの」
「どんな?」
「赤いーーースイィートピーイィーー」
僕は屋上から遠くに向かって、ものすごい大声で叫んだ。叫んでから、彼女に聞いた。「ちゃんと歌ってみていい?」彼女は笑いながらうなずいた。
明けていく横浜の街に向かって、遠くで揺れている海に向かって、僕は大声で歌った。音程は思いっきりはずれていたけど、気にしなかった。二番の歌詞も分からなかったけれど、とにかく歌った。歌い終わっても、彼女はずっと笑っていた。「そんな低い声の聖子ちゃん、初めて聞いた」
僕はちょっとだけ恥ずかしくなって「カオリもなんか歌ってよ」と言った。「歌わない」「昨日歌ってたじゃん」「あれは鼻歌」「歌ってよ」「歌わない」「じゃあ、おれが、じゃんけんで三回連続で勝ったら、歌って」「連続で? ……いいよ」「おれが、じゃんけん、メチャクチャ強いの、知らないでしょ?」「知らない」「じゃあ、いくよ、最初はグーね」「いいよ」「最初はグー、じゃんけんっ」そして僕はいきなり負けてしまって、また二人で声にだして笑った。笑いながら、僕が本当に悔しそうな顔をしていると、彼女は屋上の外へ顔を向けた。朝靄につつまれた街。それを見つめながら、ちょっとだけ、息を吸った。そして、歌いはじめた。
気がついたら僕は泣いていた。今まで誰かの歌を聴いて、泣いたことなんて一度もなかった。誰かの言葉を聴いて、泣いたことなんて一度もなかった。彼女はもしかしたら本当にいなくなるのかもしれない、と僕は思った。こんなふうに歌う子は、生きていけない。もう、この子は、きっと。
「お願いだから死なないで」
そう言うのが精一杯だった。僕は腕を伸ばして彼女を抱いた。泣きながら。カオリは何も言わずに、ただじっと前を見ていた。
******************** 2008.1.27
【リビング・ウィル】
2008.01.27
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夜空を見上げるとちょっとだけ暗さが薄らいでいた。時計を見ると四時半だった。
「もうすぐ陽がのぼるね」僕はそう言いながら、あることを思い出して嬉しくなった。「そうだ。すごいところに連れてってあげる」
「どこ?」彼女は不思議そうな顔で僕を見た。
「横浜で、一番、高いところ」
「どこ?」僕は森の向こうを指差した。
「あの上」
僕の指の先を、彼女はゆっくりと目で追った。
建築学部の校舎は二階の非常扉が壊れていて、そこから中に入ることができる。僕はそれをトモミから教わっていた。校舎に侵入し、エレベーターを使って十五階まで昇り、更に階段をつかって屋上に出る。屋上への扉も、学生が壊したのか、いつも開いていた。
「海抜だったらランドマークタワーよりも、こっちの方が高いんだぜ」
トモミはそう言って笑った。目の前いっぱいに広がっている横浜の街並みを両手でつかみながら。
窓から差し込む月の光が、廊下を白く照らしていた。その中を二人で歩く。僕が先頭で、彼女は少しだけ僕の後ろで。物音一つしない、静かな廊下だった。
突き当たりでエレベーターのボタンを押すと、機械音が激しく校舎中に響いた。信じられないくらいに大きな音だった。かなり慌てたけれど、エレベーターはおかまいなしに二階に到着した。扉が開いて、中からあふれる光りが眩しかった。
いいよって言うまで、前を見ちゃだめだよ?
彼女はちょっとだけ困ったふうに笑って、下を向いた。僕が屋上の扉を開ける。目の前には夜空が広がっている。遮るもののない、横浜の夜景。でも彼女は下を向いたまま。東の空がほんの少しだけ青かったけれど、周囲はまだ真っ暗だった。
彼女の右手をそっと引っ張る。ゆっくりと屋上を歩いていく。彼女は下を向いたまま、ついてくる。夜景がよく見える場所まで、もう少し。そこまで、一歩一歩進んでいく。立ち止まって、彼女の側で、静かに言った。
「もう、いいよ」
彼女がそっと顔を上げた。僕も同時に、前を向いた。
【リビング・ウィル】
2008.01.14
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メインストリートの最後は野外音楽堂だった。ステージの前には噴水があったけれど、水は流れてはいなかった。噴水を取り囲むようにして、木のベンチがいくつも並んでいた。僕らはその一つに腰をおろした。彼女は両手をひざの上にのせ、僕らは誰もいないステージをぼんやりと見つめていた。
周囲は森のように木々が生い茂っていて、完全な闇だった。中央にあるステージの白い壁が、ぽつんとそれだけ光って見えた。暖かい風がかすかに抜けていく。夜空には星が綺麗だった。
「このまま、世界が終われば」彼女が静かに口をひらいた。「幸せになれるかもしれないね」
僕は黙ったまま、水のない噴水を見ていた。心臓が速くなった。
「どんな状況でも精一杯生きなさいって、さっきお医者さんが言ってくれた。こんなにすごい状況でも? って言いかえすのは簡単だし、そんな下品なことは言いたくないから、言わなかった。だから、笑って、はいって答えた」
僕は彼女を見た。彼女はただじっと前を見ている。表情はよみとれなかった。長い睫毛に月の光が反射していて、それがとても綺麗に色づいていた。
「きっと、本当は、みんなの命は等しくないし、死んだほうがいい人、死んだほうが幸せになれる人って、たくさん存在するんだって、みんな知ってて……、でも黙ってる」
彼女の声は小さくて、でも一つ一つの言葉はとてもはっきりとしていて、それらが僕の胸を刺した。僕は彼女から視線をそらした。
森の向こう、その向こうにある校舎を見た。校舎から漏れ出る、白っぽい蛍光灯の光を見た。
ふいに、彼女が僕に顔を向けた。表情はいつもの彼女だった。彼女は優しく笑って、そして、僕に聞いた。
「いつまで、こうやって、お茶を濁して、生きていかなきゃいけないのかな」
深く青い夜の底で、月の光だけが彼女を照らしていて、そうして彼女は優しく笑っていて、そういう全てがとても綺麗で、僕はすぐには何も答えられなかった。
彼女は僕を見ていた。とても綺麗な目で。
僕はしばらくしてから、静かに言った。「おれも、毎日、いろんなことがくだらないと思って、生きてたけど、でも、まだ上手くわからないけど、……毎日のささいな事が、楽しくなって、いろんな、人の営みの全てが、微笑ましくなって、愛していけるようになるんじゃないかな?」
彼女が少しだけ、小さくうなずいた気がした。それから微笑んで言った。「そう思えるまで、ずっと耐えなきゃいけないね」
僕も彼女を見て小さく言った。「そうだね。そう思えるまで」僕も少しだけ微笑んだ。「いっしょにうまくお茶を濁せたらいいね」
「なにそれ」と彼女は笑った。僕もいっしょになって笑った。
【リビング・ウィル】
2008.01.02
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ジョナサンからしばらく歩けばトモミの大学があった。行ってみる? と僕は彼女を誘った。彼女は何も答えなかった。店の外へ出ると、むっとする熱い空気が僕らを覆った。まだ辺りは真っ暗で、アブラゼミの鳴き声がかすかに聞こえてきた。遠くの木々で鳴いているらしかった。夜中の国道一号線を、僕と彼女は何も言わずに歩きつづけた。
大学は小さな山の上にあった。南門の近くに破れたフェンスがあって、学生はよくそこから忍びこんでいた。背の高い僕がくぐれる大きさだったから、彼女はドレスの裾を引っ掛けることもなく、そっと抜けた。
そのまま僕らは誰もいないメインストリートを歩きつづけた。昼間は学生がたくさん行き交う通りも、今は二人だけだった。月の光が赤いレンガの道を照らしていた。聞こえてくるのは、かすかな虫の羽音だけだった。両側には木が幾重にも並び、深い森のようにずっと奥まで広がっていた。ときおり視界が開けて、校舎が見え、その壁に僕らの靴音が静かに響いた。
【リビング・ウィル】
2007.09.05
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***
あの頃撮っていた写真は一枚も残っていない。毎日見つづけることに耐えられなくなった誰かが、すべて焼いてしまったのだ。彼女と会わなくなってからも、彼は何度もその写真を見た。だから彼の思い出せる彼女の笑顔は、もう写真の中の笑顔でしかない。永遠に変わらない、影のない、純粋な笑顔。
感情の一つ一つをたしかめて、大事にして、生きていけるはずはない。あるときは上手く見過ごす。あるときは他人といっしょになって笑ったり、怒ったり、愚痴をいったり、そうやって生きていく。それらは急にできたり、誰かに教わって学ぶことではない。日々ちょっとずつ、彼も気がつかないうちに、すべては変化し、最後にはもう同じものはどこにも存在しない。
彼女の言葉、そのひとつひとつが彼をえぐる。耐えられないくらいの重さを残す。彼は耳を塞ぐ。彼女は目を閉じる。何日も沈黙がつづく。何日も。そして最後には、僕とカオリは別々に進んで見えなくなる。別々に進んで、もう二度と交わらなくなる。
***
【リビング・ウィル】
2007.09.03
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ドアが開いて、お医者さんと何人かの看護婦さんが一緒に出てきた。救急外来の明かりが消える。廊下はふっと暗闇に包まれた。(明日、またちゃんと来てね)お医者さんが僕らを見て微笑み、優しく言う。彼女は両手を前に添えて、丁寧におじぎを返した。看護婦さんの一人が僕に軽く会釈をした。僕はソファーに座ったまま、少し頭を下げた。
彼らはそのまま廊下の向こうへ歩いていって、暗闇に紛れて、見えなくなった。しばらく響いていた靴の音も、いつのまにか聞こえなくなった。非常灯のぼんやりとした明かりの中で、彼女の影だけが揺れていた。
「今のすごいきれいだった。もう一回、まわってみせて」
僕は静かな音で両手をパチパチさせながら、嬉しそうな表情でそうお願いした。でも彼女は、すっと僕の隣に来て、ソファーに腰を下ろした。(もうおしまい)耳元でそうささやいて、彼女は僕の肩にあたまをのせた。そして、目を閉じた。
【リビング・ウィル】
2007.03.28
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僕はファーに座ったまま、彼女の顔を見て優しく微笑んだ。彼女は僕の方に歩いてきて、ちょっとだけ困った顔で、左腕を見せてくれた。包帯が何重にも巻かれていて、厚く膨らんでいた。でも、それ以上に、間近で見てしまった彼女の姿に、僕は驚く。ドレスのスカートは血に染まっていて、お腹や肩にも赤いしぶきが点々と付いていて、指で血糊を拭いた跡がドレスの全体に幾筋ものびていて、今まさに人を殺しました、という感じだった。病院に来るまではずっと慌てていたから、傷のことしか見えていなかったみたいだ。
「すごい姿だね」
僕はそう言って、少しだけ笑った。彼女も僕につられたのか、少しだけ微笑んだ。
「ゆきおも、すごいよ。ついさっき人を殺しましたって感じ」
彼女はまた小さく笑った。僕もまた笑いながら、自分自身を見てみた。たしかに僕の白衣も真っ赤に染まっていた。たぶん彼女を抱きしめたときに付いたのだろう。二人とも、真っ白に真っ赤だったから、おかしなくらいによく目立っていた。
「これじゃあ、乗車拒否されても仕方ないよね」
タクシーの運転手さんの、慌てていた姿を思い出して、僕はまた笑った。笑いながら、彼女の手を握った。人の、生きている人の温かさがあった。僕は急に真剣な顔になって、彼女を見つめた。「死ななくて、本当に、よかった」と僕の口から言葉がもれた。
彼女はしばらく僕の顔をぼんやりと眺めながら、(そう?)といった表情で、「生理の血のほうが多いよ」と抑揚のない声で答えた。
隣に座ったら、と僕が彼女を招こうとすると、彼女は首を横に振り、薬の入った袋だけを僕に手渡した。そして、ちょっと体をひねったあと、バレリーナのように、ゆっくりとその場でまわりはじめた。
真赤なウエディングドレスの裾が、ふわっと気持ち良さそうに広がった。
何回かまわった後、彼女は僕に向きなおって、止まった。そして、両手でドレスの裾をそっと持ち上げて、微笑んだ。何かに満たされた、純粋にきれいな笑顔をしていた。
【リビング・ウィル】
2007.03.18
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黒いビニール製のソファーは冷たかった。クーラーのスイッチが入っていないせいか、肺の空気は重く、淀んでいる。額にもうっすらと汗が浮かんでいる。廊下の明りは小さな非常灯だけで、その先は真暗で、何も見えなかった。音も何もなかった。ただとても静かな空間に僕だけがいて、僕はぼんやりと一人で冷たいソファーに座っている。壁に取り付けられた非常用の赤いランプが、不安定な光を放っている。
カチャッと、救急外来のドアが開いた。
同じ歳ぐらいの若い看護婦さんが出てきて、その後ろに、彼女の姿が見えた。開けっ放しのドアの向こうから眩しい光があふれてきて、僕は一瞬だけ、目を閉じた。
「じゃあ、明日、っていうか今日の朝、午後でもいいから、もう一回来てね」
看護婦さんは優しそうにそう言ったあと、小さな袋を彼女に手渡した。それはとても丁寧な動作だった。彼女はうつむいたまま(はい)とうなずき、両手を差し出してそれを受け取った。袋は音も無く、彼女の両手のなかに消えた。
何かの羽音が聞こえる。天井の隅に、大きな羽をもつ蛾の成虫が浮かんでいた。バタバタと低い音をたてて、前に進もうと羽を必死に動かしている。でも前方にあるのは硬いコンクリートの梁で、それ以上は進むことができずに、その場に留まっていた。
「じゃあね」と看護婦さんの声が廊下に響いた。そして診察室に戻っていき、静かにドアを閉めた。
また、辺りは暗い夜の病院に戻った。蛾の低い羽音だけが、かすかに耳に聞こえてきた。
【リビング・ウィル】
2007.03.16
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そのパーティーは満月の夜にだけおこなわれていた。彼女は手作りのウエディングドレスで出席し、僕らは金髪と坊主で、それぞれ黒のサングラスをかけて白衣で出席した。メン・イン・ホワイトだぜっとトモミは両手を高くかかげて笑った。彼女の友だちはピンク色のナースだった。(こんにちは)(はじめまして)僕らはすぐに友達になった。
獣のぬいぐるみの男達がドビュッシーを演奏していた。照明は蝋燭の光だけだった。ステージで男がスーツを脱いで全裸になって尿道に指を入れてくださいと一人で泣いていた。友だちのナースが喜んでステージに上がった。そして親指を根元まで入れたり出したりを繰り返して(ぶよぶよしてて、ちくわみたいです)と司会のお姉さんに嬉しそうに答えていた。トモミはそれを聞いて手を叩いて笑った。お姉さんが何かを言っがマイクが割れて聞き取れなかった。彼女が耳元で(かるあみるく)と言った。僕はそれを取りに行った。僕の前には先客が二人いて、一人が大声で怒鳴りながらグラスをカウンターの奥のビールサーバーにたたきつけていた。破片が僕の左手に当たったが血は出なかった。制服姿の女の子がステージに上がった。彼女も全裸だった。それからみんなでビデオみたいなことをやり始めた。段取りが悪くて行為と行為の繋ぎ目に気持ちの悪い間があった。女の子の肌は黄色くて、乾いていて、目の焦点が合っていなかった。洋服売り場のマネキンみたね、とナースが言う。僕もうなずいた。隣では彼女がカルアミルクを飲み続けていた。グラスを両手で丁寧に持ち、目線は揺れる蝋燭の炎を見ていた。炎がグラスにうつって乱反射し、ゆらいで、底に沈んでいた。僕はそれに少し見とれた。(ままごとみたい)彼女はつぶやいた。そしてソファーから体を離して、ウエディングドレスをひらひらさせて、螺旋階段をのぼっていった。
【リビング・ウィル】
2007.02.21
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白いウエディングドレスが真赤に染まっていくのがわかった。腕からあふれ流れだす血が、透明な繊維に吸い込まれていく。側にいた女の子が声をあげた。それは言葉にならない悲鳴だった。嗚咽しながら何度も何度も繰り返し叫んでいた。 カオリは、床に座りこんだまま、動かなかった。彼女の長い黒い髪が顔にかかり、その表情を隠していた。赤く染まった両手は、ひざの上にきちんと並んで置かれていた。薄暗く狭い通路の中で、淡いオレンジ色の照明だけが、彼女の姿を浮かび上がらせていた。
僕はカオリの前に静かに座った。ドレスのやわらかな裾が僕のひざに微かに触れ、かさりと小さな音をたてた。彼女がゆっくりと顔を上げて僕を見た。でもそこに彼女はいなかった。ただぼんやりと僕ではなくて、僕の後ろにある何かを見つめていた。僕ではない何かを探し求めていた。そこにカオリはいなかった。
それでも僕は両手で彼女を抱きしめていた。カオリの輪郭は怖いほど冷たくて、カオリの唇は硬く硬く閉じられたままで、何も発しようとはしなかった。誰かの叫び声がする。金属音が響く。誰かが螺旋階段を駆け上がってくる。あたたかい何かがぬるりと僕の輪郭に触れる。彼女の体液だった。彼女の体液が彼女の腕から流れ出し、僕の体をつたい、流れ、落ちていく。彼女の白い腕は何十にも引き裂かれ、脂肪の房が飛び出し、黒く変色して膨らんでいる。彼女の目には、痛みも、悲しみも、後悔も見えなかった。ただぼんやりと、目の前にある何かを、僕には見えない何かを見つづけていた。
(いつまでこんなことをつづければいいの?)
小さくて弱々しくて、今にも消え入りそうな声だった。目には涙があふれていた。
やがてそれは頬をつたい、静かに流れて落ちていった。
【リビング・ウィル】
2006.12.17